同世代のヒーロー「燃える闘魂」アントニオ猪木堕つ

プロレス界のスーパースターアントニオ猪木さんが、10月1日79歳で亡くなりました。強烈なカリスマ性で多くのファンを魅了し、異種格闘技戦やレスラーとの数々の名勝負を残しました。現役ボクサー世界チャンピオン モハメド・アリとの異種格闘技戦では「世紀の凡戦」と揶揄されましたが、この一戦で良くも悪くも彼の名を世界に轟かせました。

現役引退してからは政界進出、湾岸戦争勃発時イラクから人質救出や北朝鮮への訪問など数々の伝説を残しました。晩年は難病「全身性アミロイドーシス」にかかり、ありのままの闘病生活を公開。

病床に伏せった弱い自分をYoutubeにさ公表したときは、絶頂期の強い彼を知っているファンにとっては大変な驚きでした。スーパースターやヒーローは、イメージが壊れるため弱い自分を見せたくないもの。病に向き合って闘っている彼の姿をみて、励まされた人は多くいると思います。隠すことなくありのままの彼の勇気あるカミングアウトに、多くのファンから賛美の声が寄せられました。

年齢は、私の方が数ヵ月お兄さんですが、もっと元気でいてほしかったですね。私は若いころからプロレス大好き人間で、力道山時代からのプロレスファンであります。日テレの金曜日夜8時からのプロレス中継はかかさず見ていました。週刊プロレスや東スポ(東京スポーツ)の読者であることは言うまでもありません。

現役時代、東スポは駅で見出しがよく見えるように売られているので、出張時よく買っていました。スポーツ紙なのにエロい写真もしっかり掲載されているので、電車の中で記事を読むのに苦労しました(笑)

アントニオ猪木とジャイアント馬場は、二人とも力道山にスカウトされ弟子入りしました。力道山も昭和のスーパースターでしたが、彼の亡き後いろいろ経緯はありますが、1972年アントニオ猪木率いる「新日本プロレス」と、同年 ジャイアント馬場率いる「全日本プロレス」が設立され、この二つのプロレス団体がプロレス業界をけん引してきました。試合の放映権は、新日本はテレビ朝日系列がもち、全日本は日本テレビ系列がもっていました。

出典元:「東スポWeb 」アントニオ猪木・倍賞美津子とお祝いに駆けつけたジャイアント馬場(1971年11月結婚披露宴)

プロレスは八百長だという声に憤慨したアントニオ猪木が異種格闘技路線を打ち出し、興行的には大成功を収めました。増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山をころさなかったのか」を読むと、力道山時代には台本があり、八百長試合が多くあったようです。時代とともに、さまざまなプロレス団体が乱立し、ショー的要素の強いプロレスと並行して、徐々にガチンコ移行のきっかけとなった「UWF」や「リングス」が生まれ、ガチンコ本命の「K-1」「PRIDE」そして、現在の「RIZIN」がプロデュースされるようになりました。

『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となる、迷わず行けよ、行けばわかるさ』・・・アントニオ猪木さんが座右の銘として引用している言葉です。

引退ときアントニオ猪木の詩「道」として朗読されたものです。彼の自伝では一休宗純の言葉として紹介されていますが、実は清沢哲夫の「無常断章」という本に収録されている詩だと言われています。出典元はともかく、人それぞれの人生において、決断を迫られたとき、とても勇気づけられる詩だと思います。心よりアントニオ猪木さんの冥福をお祈りします。

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